らいとのべる考

 昨日まで体力的にはあまりダメージがなかったので弱音禁止していたんですが、今日になって急に体調悪化。授業以外は、休息日と割りきることにしました。

 最近、ほとんど本を読んでいないことに気付きました。私が本を読むのは、文字と物語を追える程度に体力的余裕があってなおかつ休憩する時。その時間がないってことは、疲れているのも道理。
 今月はまだ二、三冊しか読み終えていない気がしていたのですが、今、正確に確認してみたら合計五冊でした。10/4に「彩雲国物語」、10/9に「空ノ鐘の響く惑星(ほし)で (8)」、10/10に「魔法鍵師(ロックスミス)カルナの冒険 (2)」、10/12に「疾走!千マイル急行〈下〉」、そこから一週間以上かけて「スローグッドバイ」を。つまり、ここ二週間くらいが、一ヶ月もの長さに感じられていたわけです。「沼地のある森を抜けて」――毎週一回は本屋に行ってるくせに、三刷目になっている最近になってようやくその発売に気付きました――を全然読めていないことも、この飢えた感覚に拍車をかけているのでしょう。ハードカバーなので、なかなか持ち歩けないのです。

 最近ライトノベルっていう言葉を本屋等でもよく耳にします。それに関係して感じたことなどをまとめてみます。
 私が一番最初に読んだライトノベル系の(と言えないこともない)本は、新井素子の「くますけと一緒に」か、火浦巧の「みのりちゃんシリーズ」中の一作。どちらも小学生の時に風邪で寝込んでいた私に、軽めの本をということで親が買ってきてくれたものです。小中学校の間は、コバルト文庫の類の本は半ば禁止されていたんですが、ライトノベル原体験はそれを遠ざけた親自身の手によってしていたんだと思うと不思議な気がします。その他には、倉橋燿子さんなんかも青い鳥文庫で読んでいました。やっぱり母親経由で。
 そんな境界領域の本を除けば、高校に入ってTRPGをはじめたことがライトノベルを読み始めたきっかけです。「ルナルサーガ」とか「妖魔夜行」とか。自分で本屋で適当に見繕うようになったのは、ちょうど「夢界異邦人」の最初の巻が出たあたりです。当時はほとんどずっと家にいたので、暇だったからでしょうか。今じゃすっかり、ライトノベルと一般小説の比が1:1〜2:1ってところです。

 ――ライトノベルの自分なりの定義、感覚を書こうと思ったんですが、なんか暴走しました。話を戻して。
 私にとってのライトノベルの定義は、主にレーベルです。ハヤカワJAやソノラマ文庫も一応ライトノベル。カラミティナイトなんかも入りますね。「キャラクター性を重視した、エンターテイメント指向の作品」なら全てライトノベルと呼べる気もします。
 ライトノベルを何故好むのか。別にライトノベルだから好きってことはありませんが、その一つの理由は、レーベルごとに特徴があり新規開拓しやすいということ。一般書は文庫ごとに陳列されていてもその中身は千差万別で、琴線に触れるものを探すことさえ大変なのです。次に、いわゆる濡れ場や、生々しい恋愛描写が少ないこと。別に恋愛ものが嫌いというわけではなく、例えば村山由佳江國香織なんかは好みですが、合わない人の恋愛描写はとことん苦手です。もちろんライトノベルにも恋愛ものはありますが、全体的にあっさりしているというか主眼においているものが異なる気がします。また何より、あっさり読めること、です。何も考えずにただ読みたい時って結構あります。ライトノベルは漫画的と言われたりしますが、気楽に読めることは同じでも、絵じゃなくて文章である魅力ってのはやっぱりあるんです。
 逆にライトノベルの嫌な点はなんといっても、イラストです。いわゆる「萌え系」の絵はやっぱり持ち歩きにくい。あとは、文章中の誤字や細かい矛盾の多さかな。作中の割と重要なポジションであるはずの団体名が混同されていて、一気に気持ちが冷めてしまったシリーズもありました。

 で、最近感じたこと。梨木香歩さんの本を読んでいて「日本語綺麗だなー」と思ったんですが、そういえばここしばらく美しい日本語に触れていない。しばらくライトノベルに偏った読書生活をしていたんですが、その中で、綺麗と思える日本語がなかった、ということです。すごく好きなシリーズでも繰り返し読んでみると、収まりが悪い文があったり、主語と述語の関係がおかしかったりすることに気付きます。酷く個人的な感覚の上、そこまで多くのライトノベルを読んでいるわけではないので言い切ってしまうには非常に躊躇するのですが、ライトノベルで(いわゆる境界系作家は除き)綺麗な文って読んだことがない。私の中では、ライトノベルの方が飽きがきやすいのも、そのあたりに原因があるんでしょうか。
 個人的主観で言うと、ライトノベルは文章や物語の矛盾はやや多め、ただし時として凄いエネルギを持つんだな、と思います。例えば秋山瑞人さんは、私の両親の世代(の多くの人々)とかから見たら論外だろうとは思います。それでも、あの文章は「凄い」。

 まとまりがない文章になりましたが、今日はこんなところで。暇があったら「なんで飽きたのか」などは分析してみると有用そうです。